彦助変死

現代語訳

 一つ、十月十六日(十二月七日)に、早朝の御礼を申しあげているところへ、久々井から使いが来て、
 「彦さんが急に悪くなって、死なれました」と申しました。私は、それを聞くとすぐに神様にお伺い申しあげました。すると、「急変ではない。変死である」とお知らせくださり、続いて、「母親が神の恩を知らないから、丑年生まれの彦助も、いつまでも幸せになれない。それで、神が早目に楽にしてやったのだ」とお知らせくださいました。
 あとで、使いの人から話を聞きますと、十五日(十二月六日)は、昼間に麦まきをして、今日の夜明けごろに自殺をした、とのことでありました。小幡家は、家内中、たびたび神様にご厄介をおかけし、おかげをうけておりながら、恩知らずでありました。養母の亭主清蔵は、娘の持病のことから黒住教の信心をし、「久々井での大元」と世間で言われたほどの人と聞いていましたが、前の養子も離縁して帰り、娘の病気も治らず、清蔵も病死し、「あとが立ち行きにくい」ということでありました。
 清蔵の妻は、私の母や西原村の叔母道満仲にとっては、いとこに当たるから、と西原の叔母が申して、香取の彦助を養子にやるようにすすめたのでした。
 私には兄もあり、弟たちや姉妹も大勢いますけれども、皆不幸せでありましたから、彦助は私を頼りにし、私も彦助の世話をしてやりました。小幡の娘の持病も神様のおかげで治り、私は、彦助に二毛作のできるよい田地まで、気を配って与えてやりました。
 それなのに、小幡の母親は、「神様を信心するな」と申しており、心掛けの悪い母親であることを、このたび思い知りました。これでは、黒住教のおかげも受けられないはずです。大変な欲張りで、彦助の葬儀の費用まで無心を言って来ました。見下げはてた女であります。
 文久二年(一八六二)十一月二十三日(翌年一月十二日)に、神様が、私に金光大明神という神号をお許しくださいました。

注 釈

 文久二年正月、養子に出ていた教祖の実弟彦助が、再三気が違ったようになりました。その都度、「治して返す」という神様の言葉どおり全快しましたが、十月に、とうとう自殺に追い込まれたのでした。神様は、「神が早く楽にしてやった」と伝えました。そうとはいえ、弟の自殺は、教祖にとって大変な出来事でした。
 『覚書』には、彦助の記述の間に、妊娠はしかが流行し、多くの人が死んでいく中に、教祖に願い出た六人の女性が助かったこと、また、その中の一人が「神が、おかげをやると約束した時刻に亡くなった」と記されています。その直ぐ後に、彦助の自殺の記述が続きます。教祖は、彦助の死と何か通じるものと感じられたのではないでしょうか。
 彦助の自殺を通して、一段と信心を進められ、教祖は「金光大明神」の神号を頂かれました。初めて、「金光」という文字が使われ、以後の神号にも金光は付けられます。後に教祖の苗字となり、教祖は皆から「金光さま」と呼ばれるようになりました。

※ これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信心はもうとまっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる。
(理3・金光教祖御理解・42)

※ 信心する者は驚いてはならぬ。これから後、どのような大きな事ができてきても、少しも驚くことはならぬぞ。
(理3・金光教祖御理解・52)

※ 神の綱が切れたというが、神は切らぬ。氏子から切るな。
(理3・金光教祖御理解・17)

※ 信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。
(理3・金光教祖御理解・53)

※ みんな、おかげをくだされい、おかげをくだされいと言うが、いったいぜんたいおかげを知っておるのか。自分の思うとおりを聞いてくださるのがおかげとは限らぬぞ。死んでおかげの者もあり、命をつないでもろうておかげの者もある。いっさいがっさい、この世のことは神様のご支配じゃから、親神様のおかげに任すよりほかはない。ご信心しておれば、その時は都合が悪いようでも、神様の仰せに背かずにおると、後になってから、あれもおかげじゃった、これもおかげじゃったということが分かってくる。これがわかるくらいの信心をせねば、信心するかいがないぞ。
(理3・尋求教語録・35)

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