立教神伝

現代語訳

 天地金乃神様に御礼申し上げましたら、「麦まきが終わって安心した。色紙を五枚買って来い」とお知らせくださいました。紙を買って来て、お願いしましたら、神様が、「五枚重ねて、七五三の縮みをつけて、幣を切れ。幣串は曲尺で二尺五寸。新しく作って、お供えせよ」とお知らせくださいました。幣ができあがったので、すぐ、神様に幣をお調べくださるよう、お願いしました。
 神様が、「金光大明神よ、この幣を区切りとして、農業を差し止めるから、そのように承知してくれ。野外での家業である野良仕事をしに田んぼへ出ていて、人が願いに来、家の者が田んぼへ呼びに来て家へ戻り、願いがすんで、また野良仕事に出て、またも呼びに来るというようなことでは、農業している時間もないし、参って来た人も待つし、両方の差し支えになる。どうであろう、家業をやめてくれぬか。
 お前は、四十二歳の年には病気で医者も匙を投げ、一同が心配し、神仏に願い、おかげで全快いたしたであろうが。その時死んだと思って、欲を捨てて、この天地金乃神を助けてくれ。
 妻も後家になったと思ってくれ。後家よりはましである。ものを言うことができ、相談もできる。子どもを連れて、ぼつぼつ農業をしておってくれ。
 金子大明神のように実意丁寧神信心している人々が、世間に沢山難儀をしているから、取次助けてやってくれ。そうすれば、神も助かり、人も立ち行く。人あっての神、神あっての人、末長く繁盛いたし、親にかかり子にかかり、あいよかけよで互いに助け合って立ち行くのである」とお知らせくださいました。
 一つ、私は、仰せどおりに家業をやめて、お広前の御用をお勤めすることにいたしました。それは、安政六年(一八五九)十月のことでありました。

注 釈

 神様から、この頼みを受けられた当時、教祖の家は、農民として、田畑も経済的にも村のトップレベルでした。また、庄屋からの信望も厚く、村の重要な役目も担っておられました。しかも、農民は年貢を納める重要な立場で、農民が農業をやめることは、とても常識ではできないことでした。
 ですから、教祖が子ども五人の一家八人を抱え、農業をやめて、神前に奉仕する生活に入るということについて、義父をはじめ周囲は驚き、反対しました。
 それでも、教祖は、神様の頼みのままに農業をやめられました。以来、どのような宗教にも属さず、自宅で独自に神様を祭り、終日、神前に奉仕し、人々の悩みや願いを神様に届け、神様の願いを人々に伝える、神と人との「取次」に専念されることになったのです。
 これをもって、金光教の立教としていますので、この神様のお知らせを「立教神伝」と呼んでいます。
 参拝者の多くは、金神の祟り障りから逃れるためのお祓いや、事の良し悪しの判断、病気治しなどの御利益のお願いで、教祖もそのことを神様に祈念されていたようです。
 農民が、無資格で未公認のまま布教し、整った儀式や神殿、教えがあるわけでもなく、当時は、拝み屋や祈祷者の類と思われていたでしょう。
 それでも、人々は助かり、東は大阪や西は山口地方へも広がり、多くの人が参拝するようになりました。霊験奇跡に留まらず、神様は、さらに、教祖に対して、救う身としての、新たな試練を与えていかれます。

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