養子

活字
活字

現代語訳

文政八年(1825)の九月に、大谷村に住む、父の姪の婿にあたる大橋万吉殿と、益坂村に住む、母の弟である叔父の江本庄八殿と、この二人にすすめられて、私は、大谷村の川手粂治郎殿のもとへ養子にまいることになりました。それは、十二歳の年のことでした。その時、養父は、卯年の生まれで五十五歳、養母は、亥年の生まれで三十五歳でした。
私は、この家の曽祖父の名前を譲られることになり、香取源七を川手文治郎と改名いたすことになりました。

注 釈

当時の農家は、長男が家を継ぎ、その他の兄弟は、その家の労働力として一生を過ごすか、養子に出るしかありませんでした。教祖も次男であったため、この養子入りがなければ、家督を継ぐことができず、後に立教神伝(取次ぎの頼み)を受けて、取次ぎの業に専念することもできませんでした。ですからこの養子入りも、教祖の生涯での重要なポイントと言えます。
因みに、川手家の田畑は一反九畝で、これは百二十三人中、三十番目で大谷村では裕福な農家となっていますが、家は六畳一間(一部屋)、そこに養父の母と居候人(与八)を入れて五人で生活をされていました。後に教祖は四反三畝まで増やし、村で九番目の田畑をもち、建物も母屋の増築、門納屋の建築などをしています。教祖がいかに、勤勉で仕事熱心であったかということが分かります。

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