宮建築の神伝

現代語訳

 元治元年(一八六四、五十一歳)の元日(二月八日)に、神様が次のようにお知らせくださいました。
 「天地金乃神には、日本中どこにも宮も社もなく、人々が参る場所もない。どうか、二間四面の宮を建ててくれ。皆の安全を守ってやる。
 天地乃神にはお役所もないが、お前にはお役所がある。世話人を頼み、お役所にお願い申し上げよ。
 世話人には、この村に住む午年生まれの川手保平と同じ村に住む巳年生まれの森田八右衛門を頼め。大工には、安倉に住む丑年生まれの川崎元右衛門と弟子の六条院中村の遠藤国太郎を頼め。手斧始めは、来る四日(二月十一日)の吉日にせよ。
 木ごしらえをした後で、お役所の許しが得られなければ、どこへでも、宮がいるという所にやるから、かまわない。すぐに木ごしらえをせよ。お役所の許しが得られて建てることができれば、それはお前の宮である。天地乃神が宮へ入っておっては、この世が闇になる。この宮は、真実、人々が神にお願いをし、お礼を申し上げる場所である。
 お前の取次で、神も立ち行くし、人々も立ち行く。神と人との間柄は、人あっての神、神あっての人という関係である。子供のことは親が頼み、親のことは子が頼んで、丁度、天と地の働き合いのように、あいよかけよでお互いに助けあって、頼み合いをいたすようにせよ」

注 釈

 安政六年、立教神伝以来、救う身としての試練を乗り越えながら、人々を助ける取次に専念して四年。山伏の妨害、斎藤重右衛門の逮捕などで広前が慌しくなる中、元治元年の元旦早々、神様は教祖に、「この神は日本に宮がないので、宮を建てるように」頼まれました。
 宮というのは、今日、教会ということになりますが、その内容を、「氏子の願い礼場所。其方取次で、神も立ち行き、氏子も立ち。氏子あっての神、神あっての氏子、子供のことは親が頼み、親のことは子が頼み、天地のごとし、あいよかけよで頼み合いいたし」と告げました。
 どの宗教にも属さず、無資格、無認可のまま布教していた教祖にとっては、宗教行為を公に認められる手立てを取らねばならなくなりました。さっそく、当時、神主などの資格を与える京都の白川家に願い出て、自宅で神を拝むことと宮を建てることを許されました。当時、農民が神職の資格を得たり、新しく宮を建築したりすることは非常に難しい状況でしたが、一つ一つ、解決していきました。
 神様の指示のままに、遠縁の大工川崎元右衛門に頼み、建築を開始しました。宮の建築は、無資格、無認可による、山伏との問題や人々の不信にも対応させようとする神様の計らいもあったのでしょうが、この建築は、様々な問題をはらんでいました。
 そういう中、十月に、教祖は、「金光大権現」の神号に進まれました。

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