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お知らせ事覚帳原文 (金光大神直筆本)




活字


活字
現代語訳
 七月二十七日(八月三十日)、鞆屋喜三郎が参り、笠岡宮地の斎藤重右衛門五十歳からの、「よろしく申し上げてください」ということづけを伝えた。
八月八日(九月十日)、お役所から斎藤重右衛門の布教を禁止されました。
後日、その時の様子を聞いた。
 『一つ、「天地乃神の道を教える生神金光大神の広前を守りとおせ。金光大神の取次を一心に願え」と、熱心な信者たちに申しつけよ。金光大神よ、「拝む」と言うな。「お願いを神様にお届けしてあげましょう」と言うがよい。「お願いに来ている信者のそれぞれの心で神に頼め。わが心におかげはあるのだ」と話して聞かせよ』明治五年七月二十八日(八月三十一日)のこと。
また、同日、 『時節を待って、そのうちしだいに、熱心な信者たちも「金光」と名乗ることを、神から許すようにする』以上。
POINT
  この明治五年には、修験道(山伏)が廃止され、教祖に対する山伏の妨害はなくなりました。ところが、教祖自身、慶応三年に得た神主職を失い、また無資格、無公認で布教を進めざるを得ない状況でした。
 さらに、金神を祭ることが禁じられ、暦が太陽暦に改められて、これまで暦に出てきた金神信仰も廃止されました。加えて、西洋化、近代化政策の中で、まじないや神がかり的な祈祷の類は淫祀邪教と見られ、排除されていきました。もちろん、新しく宮を建てることは固く禁じられました。
 このような宗教政策によって、教祖広前は、存続すら危ぶまれる、深刻な状況に迫られていきます。
 この年の夏、笠岡の地で大きく布教を展開していた斎藤重右衛門が、政府から布教を差止められ、重右衛門は遺言をしたためたほどでした。代参によって、その事を聞いた教祖も、いずれ自分の広前にも同じ命令が下がるであろうと覚悟をされたことでしょう。
 ところが、その翌日、神様は、心配する教祖に、「天地乃神の道を教える生神金光大神社立てぬき、信者氏子に申しつけ。金光大神社願い、一心に。拝むと言うな、願い届けいたしてあげましょうと申してよし。頼む氏子の心で頼めいと申して聞かせい、わが心におかげはあり」と指示しました。
 さらに、「時節待ち、おいおいには、金光、神より許し、信者氏子。同じく。……海川変わり、船着き場所ともなり。世は変わりもの。宮建て屋敷は、此方へ決まり。金光、氏子、先をせくな。おどろきから治まりになり」と告げます。
 そういう閉塞した状況にあっても、教祖、さらに信者の動揺や心配に対して、政府の動向に心惑わされず、心を定めてこの道を立て抜くよう促されたのでした。同時に、この神は他の宗教とは違うことを再度確認されつつ、時代は変わっていくから焦らないようにと、教祖を励まされました。
 また、この時の神様のお知らせには、翌年の明治六年に確定する、金光教の信心の神髄とも言うべき、「天地書附」の原石とも言うべき内容が、既に吐露されています。また、問題となるであろう宮の建立についても、この境内地に建てることを伝えました。
 そういう中に、結婚して一女をもうけた長男正神が、武士の身分を失い、身を持ち崩していき、教祖の下に、度々、金の無心に来るようになりました。
親として胸の痛む問題でしたが、以後、ますますひどくなり、長男の無心は、教祖が亡くなられるまで続くことになります。

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