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一つ、矢掛智教院おじ斎次右衛門と申し、出、ぐずり申し。
一つ、山伏の儀つき、笠岡出社へお差し向け。
私、同じく二十一日暮れ六つ立ちにいたして行き。信者氏子まいりており。話いたし、早々矢掛へ人やり。明け二十二日ばんに人もどり、智教院断り申しあげと申し。



現代語訳
 一つ、矢掛の智教院の院主の叔父で、石川斎次右衛門と申します山伏が広前に来まして、言いがかりをつけて、私の御取次のご用を邪魔しようといたしました。
 一つ、この山伏の件について、神様が、出社である笠岡の斉藤重右衛門のもとへ、私を差し向けられました。私は、七月二十一日(八月十六日)の午後六時ごろに出発いたしまして、笠岡へ行きました。あちらでは、信者の人々が参って集まっておりました。皆で話し合いをいたしまして、早速、矢掛へ人を使いにやりました。翌二十二日の午後に使いの人が帰って来まして、「智教院は、断りを申しておりました」と申しました。
POINT
 年を追い、金神様は、祟り触りの悪神ではなく人間を助ける神様であり、日柄方位などは見るに及ばずと説く教祖の広前で、多くの人が救われ、参拝者が、急激に増えていきました。ところが、金神の祟り障りを説き、祈念祈祷で封じたり、祓ったりする山伏達は、教祖を快く思わず、ゆすりやたかりや乱暴を働いたり神前の物やお供え物を取っていったり、布教の妨害が頻繁に起きてきました。
 彼らの表向きの言い分は、無資格での布教でしたが、実際は、教祖の信仰は、山伏の信仰を否定する敵であり、教祖広前の隆盛は、ねたましいばかりか、死活問題でもあったのです。
 文久二年、三月には、山伏達は、教祖広前を訪れ、信者が供えた幕や幟、鏡、提灯などを奪い去りました。また、二十四日には、庄屋を訪れ、教祖が無資格で布教をしていることを理由に、その差止めを申し出ました。それらことはご自身は詳しく記しておられませんが、庄屋の『小野家文書』にその事実が記録されています。
 山伏の妨害は、明治五年に、政府の宗教政策で修験道(山伏)が廃されるまで、およそ十年間も続きました。
これらの行為に対して、教祖の対応は信心が進むに従って、下記のように変わってきます。神様が差し向けられているとして、黙って受け、なすがままに任せて、神様に願っていく」ことに徹しました。この「何事も神の差し向け」と受け、その奥にある神様の意に沿っていく」という信心姿勢は生涯にわたって貫かれています。

※ さすがに、情の激する時には、「この方は、肥かたぎの百姓じゃったに、それがこうなったが憎いで、『狐じゃ』『狸じゃ』と言おうが。この方は、人が助けたいばかりに、こうしてやっておるのじゃ。それが気にいらなけりゃあ、この方を殺してみい。そうすりゃあ、法印の言う通りになろうぞい」とて、顔をうち赤らめ、長い眉毛を、ぴんぴんとふり動かし、手をもみながら、憤ることもあった。
(高橋富枝の伝え)

※ このお広前へある山伏が来てかれこれしたことは、よくご承知であるが、これを自分が腹を立ててかれこれしてはいけない。これくらいのことは、神様のお力でお払いのけになることは、わけはない。それなのに、そのようにたびたび来るのは、神様がおやりなさるのであるから、私はいっこうに腹は立てない。ご承知のとおり、今日なくなっても明日はまたあがる。神様というものはお気のよいものである。そして、その山伏は何もないようになる。この神様のお道は年々にご繁盛なさる。氏子、先で合点せよ。
(教典p633、 理2・津川治雄・19)

※ ある時参拝していたら、山伏が来て提灯などを持ち去ったが、「打ち向かう者には負けて時節に任せよと、神様が仰せられるが、ここのことである」と仰せられた。
(教典p490、理2・国枝三五郎・9)
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