『御覚書』の執筆

お知らせ事覚え帳原文(金光大神直筆本)

現代語訳

 十月十五日(十一月二十三日)、
 『一つ、ここに取次の広前を開いた金光大神の、生まれた時のことや親の言い伝え、また、この家へ養子に来てからのことを、記憶にあることや「お知らせ事覚帳」に記したことをもとにして、書き出せ。
金神の方角を恐れることや、ご無礼をお断り申したことや、神々を信心いたしたことを書け』

注 釈

 新生金光教が確立し、進むべき道が明らかにされた明治六年。翌七年には、五年から記述されている、長男正神の無心が回数を増します。六月には、二百三十両の借金の内、六十両を与え、「親は馬鹿と人に言われてやり」と書かれています。正神は、かつて武士として出世しましたが、没落した姿は周囲にも知れ、噂になって冷ややかな視線を浴びていたのでしょう。その中で、神様は、「心配するな。先では、神様のおかげというものは、なんとえらい(すごい)ものじゃ、と人に言われるを楽しみに待てい」と教祖に告げます。
 神様は正神に、「神の教えを守れば安心になる」と告げ、さらに、「神が金のことは繰り合せてやるから、親に金を渡さないように」と指示した。それでも、なかなか改まることができないばかりか、母親が、子供かわいさから金を渡し、神様は、「親子とも背き」と厳しく誡めました。
 心配事の一方で、この年、娘のくら、この(新暦1月2日)二人が結婚するめでたいこともありました。また、元治元年から始まった宮建築は、この十年、度々、中断したが、「神が指図するまで待て、作業小屋が壊れても腐っても、そのままでよい」と指示しました。

 秋のある日、神様は教祖に、生まれた時から今日までのことを書くように告げました。これは『覚書』と呼ばれる教祖自ら半生記を記したものです。
 折しも、正神が無心に来たその日のことでですから、教祖は、わが子のことに心を痛める中に、『覚書』を書き進められたのです。七墓や自らの四十二歳の大患での九死一生などを振り返る中で、「よくもここまでおかげを頂いてきたものだ」と、改めて感じられ、あの大患で初めて神様と出会った時のくだりにきた時、感極まって、大きな○を書かれたのです。これは教祖だけでなく神様の感動でもあったことは、安政二年のところで述べた通りです。
 この『覚書』には、生誕から明治九年までのことを記されています。一方、『覚帳』は、慶応三年に書き出され、安政四年のことから、亡くなる十九日前のことまで書かれています。明治四年頃からは、『覚帳』の方が詳しくなり、家族・布教・宮建築の様々な問題が赤裸々に記されています。
 ですから、『覚書』は教祖の前半が、『覚帳』には、後半が記されています。『覚書』は昭和四十四年に公刊されましたが、『覚帳』は、昭和五十八年、教祖百年祭に新しく刊行された『金光教教典』に収められ、ようやく陽の目を見ることになったのです。
 金光教は、この二つの書がそろった今日、初めて、教祖の全体像が捉えることが出来るようになったのです。
 この『覚書』執筆は、明治六年に、教祖の信仰が確立し、新生金光教が誕生したこの時点で、それまでのことを振り返って、総括させようとする神の計らいがあったと思います。

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