教祖略歴

文化十一(1814)年
8月16日
占見村で生まれる。父香取十平、母しもの次男。源七と名づけられる。
文政八(1825)年
川手家へ養子に入る。
天保七年
~嘉永四年
七墓を築く。
文久二(1862)年
明治元(1868)年
「生神金光大神」と神号を改める。
明治十六(1883)年
10月10日
帰幽

 

主な事跡

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生誕

文化十一年(1814)浅口郡占見村(現岡山県浅口市金光町)で、香取十平、しもの次男として生まれる。幼名は香取源七。幼いころから病弱で、幼年期には腹痛でたびたび悩まされた。六歳の時にほうそう(天然痘)で生死の境をさまよい、九歳の時、はしかを患う。

養子

十二歳、隣の大谷村、子どもがいなかった川手粂治郎・いわのもとへ養子に入る。

手習い

養父の親心から、庄屋の小野光右衛門宅へ、二年間手習いへ通う。当時、農民の多くが字の読み書きができなかったが、この手習いがあったので、後に『覚書・覚帳』を書くことができた。

七墓

養子に入った後で生まれた義弟の鶴太郎が病死、翌月に養父粂次郎も病死。赤沢に改姓。二十三歳で結婚するが、長男亀太郎、次女ちせ、次男槙右衛門が相次いで、病死。さらに飼い牛が二頭、二年続けて同じ月日に病死。俗に言われていた、金神七殺(方位を犯すと知って犯せば主からとり、知らずに犯せば牛馬まで加えて七墓築かす)を体験する。
※ 金神 = 周期的に遊行し、この神が留まる方角をおかして、建築や土木工事、旅行、嫁どりなどをすると、家族に死が訪れ、家に七墓築くまでに祟りを受けると世間で信じられていた。

四十二歳の大患

安政二年(1855)のどけという九死に一生の病気にかかる。その平癒祈願の際、祈祷者が神がかりになり「金神へ無礼をしている」との言葉が下がった。それに対して、教祖は「凡夫の身で、どこに無礼があるか分かりません」と詫びる。そのあり方が金神に認められ、生涯の救いを約束される。これが神との最初の出会いとなる。以来、月三日の神参りを始める。

神の頼み始め

実弟繁右衛門に神がかりした金神から、「金神の宮を建ててくれ」という神頼みを受ける。

霊験奇跡時代

安政五年(1858)、金神の弟子として、神から直接のお知らせ(啓示)を受けるようになる。事の吉兆、先の出来事や天気、農事など、生活全般にわたって、神のお知らせを受け、次第に霊験奇跡が現れる。一方で、神の指示による様々な修行や長女の大病などの試練を経て、神への絶対信と神からの信頼を得て、翌年、初めて「文治大明神」という神号が下がる。

立教神伝

安政六年(1859・46歳)、神から「家業をやめて、難儀な氏子のため、神と人とを取り次ぐ救済に専念してくれ」という頼みを受けた。これにより、農業をやめ、生涯、終日、神前(広前)に座って「取次」に専念することになる。この時を、金光教の立教としている。

東長屋建て替え

母屋東側の長屋を、神の指図のまま、不吉として忌み嫌われた四二間(死に間)などの寸法で建て替える。後日、教祖は、当時、庶民の生活に深くかかわっていた「金神の祟り障りを恐れ、日柄方位を見て、その難を逃れる」という信仰を、迷信として打破し、「日柄方位は見るに及ばず」と説いた。

山伏の迫害

金神の祟り障りを加持祈祷で封じる修験道の山伏による布教の妨害などが始まる。教祖は、金神が日柄方位によって祟り障りを起こす悪神、邪神と思うのは、人間の思い違いであり、金神は人を助ける神だとして、日柄方位にとらわれなくてよいと説いた。しかも、教祖は当時、神職の資格を得ていなかった。
そのため、教祖の広前に参拝する人々が増えていくにつれ、山伏達が教祖の元へ来ては、神前を荒らしたり、暴行を働いた。その状態は、修験道が廃止される明治5年まで、約十年間続いた。

彦助変死

小幡家へ養子入りをした実弟彦助が、錯乱状態となり、教祖が引き取って回復させて帰宅させるが、最終的に、自殺した。
神からは、「養母が恩知らずで、苦しんでいたので、くつろがせてやった」とお知らせがある。その約一か月後、これまでの神号(神としての名称)が金光大明神へと変わり、教祖の信仰が一段進んだことがうかがえる。

斎藤重右衛門逮捕

文久三年(1863)、笠岡で布教していた斉藤重右衛門が逮捕される。斉藤は、文久元年、妻の重病で教祖広前に初参拝して全快のおかげを頂いた。その約四十日後には、笠岡で取次に従うことを神から命じられ、参拝者は教祖広前を凌ぐほどで、周囲のねたみをかっていた。
文久三年正月、斉藤は、教祖広前へ参拝したが、かごを仕立てて大名行列のような様相で人目を引いた。日ごろの周囲の中傷と身分不相応の参拝が、代官所の耳に入り、帰りの道中に逮捕され、投獄された。改心を求める拷問の末、神前の物やお供えなどを没収され、数か月後に釈放された。

宮建築の神伝

元治元年(1864)、教祖は、神から、「天地金乃神には、日本に宮社も参り場所もないから、宮を建ててくれ」とお知らせが下がる。教祖広前は、農家であった教祖の自宅に、床の間に神棚を設け、十畳ばかりの参拝の間があり、提灯などが飾られている程度の質素なものだった。

神のひれい

慶応三年(1867)神から、「神の頼みはじめから十一年目となるが、天地の神のひれい(威徳)が現れ出した。かたじけないことである。神が一礼を申す」と言葉が下がる。
この年、教祖の信仰も充実し、参拝者は隆盛を極めた。教祖は神主職も取得し、長男浅吉(正神)、次男石之丞(山神)が武士の身分となった。また、領主へ百両を献納するなど財的にも余裕があり、養母いわの葬式も盛大に行われた。神の威徳が、このように教祖の上に輝いた時代であった。
※ この時の神の言葉は、「覚帳」の執筆動機、また最初の記述内容に大きく関係すると思われる。

神道国教化政策

明治維新の宗教政策として、神仏分離が打ち出され、天皇崇拝をもって国民の思想を教化するため、神道を国教化する政策が推進された。神社や神職の制度も新に設けられ、教祖広前にも大きな影響を及ぼすことになる。
これによって、日本古来の神以外は宗教として認められず、これまでの神職資格も無効となった。

六角畳取りかたづけ

明治四年(1871)、神は教祖に「六角畳(祈念座)から降ろす」と告げた。神道国教化政策によって、教祖の信仰の対象である金神、神主職としての身分、布教の認可など、すべての面に逆風が吹き始めた。
こうした時勢に先がけて、神は教祖に、宗教者の象徴である、祈念の座から降ろすというお告げによって、今までのような宗教活動ができなくなることを示唆した。それほどの事態であり、神は「よくよくのことと思ってくれ」という言葉を添えている。

理解でよし

同年、神は、「これからは理解でよし」と告げた。これまで、教祖広前に持ち込まれるほとんどが、病気災難を逃れるための祈念や、運命、日柄方角、相性、家相などの吉凶の判断などであった。それに対して、神は、そういった祈念や判断はせず、神の意思を伝え理解させるだけでよいと指示した。
金光教では、神の言葉や意思を「理解」と表現し、それを伝える事を「理解をする」と言う。

天地書附の原石

明治五年(1872)、斎藤重右衛門が、政府の宗教政策により、布教差し止めとなった。斉藤は、遺書をしたため、死も覚悟し、七月二十七日、教祖のもとへ使いの者を送っている。おそらく、斉藤の心中や、布教差し止めのことを使いの者に託したと思われる。
その翌日の二十八日、神様から
「天地乃神の道を教える生神金光大神社を立てぬけ、と手厚い信者たちに申しつけよ。金光大神、拝むと言うな。願いを神様にお届けしてあげましょうと言うがよい。願う信者の心で頼めと話して聞かせよ。わが心におかげはあり」とお知らせが下がる。

書き置き

斎藤重右衛門遺言書
『笠岡金光大神』 金光教笠岡教会 刊

神前撤去

明治六年(1873)、無資格となった教祖広前は、布教差し止めとなった。宗教行為を禁じられたばかりでなく、「神前の物を一切片付けよ」という戸長(村役人)の命令のままに、神前も全て取り払った。教祖はそのことを「大和終わり」「荒れの亡所となった」とも記している。
教祖は広前を退き、奥の間にこもって、誰にも会わず、ひたすら神に向かった。心中、宗教行為ができない中で、どうしたら苦しむ人々が救われるのか、と葛藤したであろう。

天地書附定まる

布教差し止めから一カ月後、神から「金光大神、生まれ変わり」と言葉があり、二日後に、
「天地金乃神 生神金光大神 一心に願 おかげは和賀心にあり」という書附を作れと指示が下がった。これは約一カ月後に、以下のように体裁も整えられ、天地書附と称された。ここに初めて、神名が天地金乃神と定まった。
また、神は、この書附を子ども達にも書かせて、ためておくよう指示した。さらに、この書附を守れれば、誰でもおかげが受けられると説き、参拝者に下げられた。
教団では、天地書附を神殿にまつり、信心の神髄、一切のより所としている。
「生神金光大神 天地金乃神 一心に願え
おかげは和賀心にあり
今月今日でたのめい」

『御覚書』の執筆

明治七年(1874)、神は教祖に、生誕から今日までの歩み、信仰自叙伝とも言うべきものを執筆するよう告げた。天地書附をはじめ、教祖の信仰の重要な内容が打ち出された翌年のことであった。 神は、教祖に、その確立した信仰をもって、人を救済していくことを願い、これまでの信仰の道程を確認させ、遺させる意図があったと考えられる。

くぼみの図

明治八年(1875)、図を描き「低い所へ水が寄るように、唐や天竺から、くぼい日本へ寄ってくる。子どものことは神に任せて、世間体を言うな。世間体を言う者は親類であってもおかげはなし」と言葉が下がった。
武士だった長男正神は、明治四年の廃藩置県によって失職し、商売を始めるが、その後うまくいかず、教祖への無心が、年々増えていた。葛藤する教祖に対して、また、世間全般に対して、神が、親のあり方、信心の進め方について、示したもの思われる。

官憲による干渉

明治九年(1876)六月「金光大神よ、人が小便をかけても、こらえておれ。神が顔を洗ってやる。人がなんと言っても、こらえておれ」というお知らせが下がる。
二か月後に、鴨方(現浅口市)の巡査二人が、警棒を携え、教祖の広前へ訪れ、神のことをあれこれと尋ね、人を助けることはしてもよいが、金品を取るなど宗教行為はしてはならないことを言い渡した。
教祖は無資格で、宗教としても認められておらず、官憲の様々な取り締まりが、教祖が亡くなるまで続くことになる。

正神の無心

明治十一年(1878)、長男正神の無心がピークになる。これまで、正神に対して、度々に神の教えが下がったが、なかなか改心できず、この年には、「今度、心を狂わせたら、犬猫同様にする」という、神の厳しい言葉が下がる。

体の不調

明治十年ごろから、次第に体調がすぐれなくなる。明治十二年には、三月から六月の初めにかけて、腹具合が悪く、下痢することが多く、昼夜五度も便所へ行くほどで、持病の痔でも苦しんだ。さらに、明治十四年、六十八歳の高齢に加えて、度重なる腹の病で、教祖は次第に衰えていった。

晩年

明治十六年、教祖が亡くなる十九日前、神から「人民のため、大願の氏子を助けるため、身代わりに神がさせる。金光大神ひれいのため」と、お知らせがあった。
ここまでで、『覚帳』の記述は終わっている。

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