(金光四神筆写本)
現代語訳
明治四年(一八七一、五十八歳)の正月と、二月三日(三月二十三日)に、神様が、
「一つ、広前で祈念の時に座っている六角畳を取り片付けよ。安政六年(一八五九)にお広前を取次に専念させるようになってから、今年で十三年になった。今までたびたび予想もしな災いや苦難を受けてきた。これから先も、どのような予期しない災いがあっても、苦に病むな」とお知らせくさいました。
四月六日(五月二十四日)に、六条院西村に住む信者で、柔術の先生である高橋藤吉と富枝の夫婦がお参りに来て、世間で私について悪いうわさが立っている話をいたしました。
「世間では、金光大神が出社の信者たちと組んで強盗に入った、といううわさが流れております」とのことでありました。私は、「こちらではなにも知らない」と申しました。事実、何事も起こりませんでした。
一つ、四月十日(五月二十八日)に、神様がお知らせくださり、「世話人の午年生まれの川手保平は、お広前の御祈念帳を書くご用を、今日限りやめよ」と仰せられました。その後、また保平が来ましたので、神様にお伺い申しあげましたら、「世話人の保平よ、金光大神を六角畳の上からおろすのであるから、よくよくのことと思ってくれ。また、用があれば、こちらから申しつける。今日もまあ、ご用しなくてよい」と仰せられました。
注 釈
安政六年から取次の生活に入って十二年、様々な試練を乗り越えた教祖に対する神様の信頼もいよいよ深くなりました。明治四年になると、神様は、教祖が神前で使用し、神職の象徴であった六角畳を取り除くように指示し、教祖に、「よくよくのことと思うてくれ」と告げました。
このことは、これから先、神様が教祖を、これまでの既成の宗教とはまったく違う、未知の世界へ教導していかれようとすることを暗示しているように思えます。
教祖は、これまでにも様々な苦難を受けてきましたが、神様は、さらに「これから、どのようなことがあっても、苦にしたり、心配したりすることはないぞ」と覚悟を促しました。
さっそく、起きてきたのが、教祖の信者が徒党を組んで強盗を働いているという噂話です。当時、強盗は極刑でしたから、参拝者は急激に減っていきました。これは、役人が取調べた結果、教祖広前が伸びていくことへの嫉妬から出ていることが判明しました。
そして、この年、新しい神職制度によって、教祖は、慶応三年に得た神職(神主)の資格を失い、公式には宗教行為が出来ない厳しい現実に直面します。
当時はまだ、教祖広前は金神信仰と思われており、「金神参り」と言われていました。ほとんどの参拝者が、金神の祟り障りを逃れるため、事柄の良し悪しを尋ねたり、また、自分の願いの成就や、難儀を祓ったり解決したりしてもらうことを願い出る、現世利益を求める信仰状況でした。人々は宗教に、そのことを求めてきましたし、宗教もその役割を果たすことで、人々の中に生き、根付いてきました。今日でも、そういえるでしょう。