現代語訳
同じ年の十一月二十四日(十二月十九日)の早朝に、神様が、次のようにお知らせくださいました。
「一つ、日天子の照らす下に住む人間は、みな神の大切な子供である。身の上に痛い所や病気があっては、仕事ができにくい。身の上の安全を願い、仕事に励み、五穀豊穣のことから牛馬のことにいたるまで、人間の身の上のことはどんなことであろうとも、実意をもって神に願え。
一つ、月天子の威徳によって恵まれる子供の育て方のことについては、親の心が大切で、妊娠を中絶することは、先々で苦難を招く。実意な心をもって神に願えば、苦難はなく、安心することができる。
一つ、日天子 月天子 鬼門金乃神の取次者である金光大権現の威徳をもって、神も助かるようになった。
人間の苦難がなくなり、安心できる道を教えて、いよいよ今年までで、神の頼み始めから十一か年になった。
金光大権現よ、お前をこれから一段と神として取り立てる。日天子 月天子 鬼門金乃神の三神、すなわち天地乃神の威徳が現れ出した。かたじけないことである。金光大権現よ、神が礼を申す。あとあとのために、このことを伝えておく」
注 釈
この年に、次男の萩雄が、年に一度の祭りの日に大病をしました。妻は、命ごいの祈願を教祖に願いますが、教祖は厳しく、「うちのものは、皆、神様のもの。日頃の心得を改めよ。祭りの日に病気になるのは、家族の心のあり方からだから、仕方がない。死んでも構わない。放っておけ」と諭し、神前に奉仕しました。
また、神様も、「かわいいと思うな。打ち殺してしまえ」と厳しい言葉が下がりました。くらの病気の時と同様、子を思う親の人情を振り捨ててでも神前奉仕を貫かせようとする、神様の厳しいまでの教導でした。
これは、情に左右されるようなことでは、人が助かるための取次、また、神様の心や働きを受けきることはできないという、どんな時にも、神様に従う取次の厳しさを物語っています。
さらに、神様はここで、自らの神名を「日天四、月天四、鬼門金乃神」と伝え、その神性を明らかにされました。この神名は、まだ過程ですが、最終的には、明治六年に、「天地金乃神」と確定します。神名が、教祖の信心の進展に応じて変わっていったことも、金光教の特徴です。
神様は、安政四年、弟繁右衛門の神がかりを通して、「金神の宮を建ててくれ」という「神の頼みはじめから、今年で十一年になった。神のひれいが見え出した」と喜ばれ、お礼を言われました。
このように、神を現すに足る人を得た神様は、これから、いよいよ、神様の内容、願い、さらに信心の在り方を明らかにしていかれます。
また、このお知らせは、教祖にとって、有り難い、感慨深いものであったのでしょう。これを機に、教祖は、『お知らせ事覚帳』を、この安政四年の神の頼み始めの事跡から書き出されます。この『覚帳』は、亡くなる十九日前まで書き続けられました。