現代語訳
四月二十五日(六月九日)の午後に、私は、気分が悪くなりました。翌二十六日(同月十日)には、病状が重くなり、お医者を迎えて診てもらい、薬も飲みました。また、神様や仏様にご祈念して、病気平穏をお願いしましたが、病気はのどけになってしまいました。そのため、ものが言われませんので、手真似で合図をいたしましたが、湯水ものどを通らないほどになりました。お医者は、 「これは、九死に一生の重態だ」と申しました。
しかし、私は、心をしっかりと持って、神様仏様に身を任せ、家内(三十七歳)に、「外へ出て、仕事をしなさい」と、手真似で指図いたしました。
親類の人達が、皆来まして、小麦の脱穀作業を手伝って下さいました。しかし、仕事をやめて心配し、「文治の容態は、とても危ない」と、考え込んでおりました。そして、「宇之丞を育てなければよかったのになあ。今、文治に死なれては辛いことだ」と皆が心配しあっておりました。「仕事をしているどころか」と言う人もありました。
「しかし、とにかく早く片付けて、神様にお願いするよりほかに、しかたがない」ということになりました。親類のものが集まって、いろいろの神様、殊に石鎚権現様にご祈念をし、病気全快をお願い申し上げました。
すると、古川家の分家で、子生まれの治朗(二十八歳)に、神様がお下がりになって、 「この家の建物や建築や移転について、豹尾と金神に無礼をいたしておる」とお知らせくださいました。
妻の父の古川八百蔵(六十三歳)が、 「この家に限って、金神様の祟りがあるはずはない」と申し、さらに、 「方角をよく占って建てたのだ」と、申し聞きをしました。すると、神様は、 「それでは、方角を占って建てた、と言いはるのなら、この家は滅亡しても、主人は死んでも、かまわないか」とおっしゃいました。
私は、びっくりいたしまして、「お父さんは、なんということを言われるのだろうか」と思いました。すると、急にものが言えるようになりだしましたので、寝床の中で、神様に、 「唯今、義父が申しましたのは、なんにも知らずに申したのでございます。戌年生まれの私は、年回りが悪く、本来ならば、建築をしてはならないところを、方角を改めて占い直してもらい、工事の日程を何月何日と決めていただきまして建てましたが、狭い家を大きい家にいたしましたので、どの方角にご無礼をいたしましたことか、凡夫の身で、全くわかりません。方角を占いましたから、神様へのことはすんだとは、私は思っておりません。あの時以来のご無礼のすべてをお詫び申しあげます」と、お断りを申しあげました。
すると、神様は、 「文治は、心がまえがよい。よろしい。ここへ這いながらでも、出て来い」とおっしゃり、 「先に言った者は、間違った考え方をしているが、お前は、行き届いている。元日に、氏神の広前へ参って来て、どのように手を合わせて頼んだか。氏神を始め神々は、皆ここへ来ておるぞ」○
注 釈
教祖にとって、九死に一生の大患での神様の出現とその言葉は、青天の霹靂でした。
明治七年に、神様から指示があり、『覚書』には、この時の喜びが、感動の大きな丸印と共に次のように表現されています。
「ここまで書いてから、おのずと悲しゅうに相成り候。
金光大神、その方の悲しいのでなし。神ほとけ、天地金乃神、歌人なら歌なりとも詠むに、神ほとけには口もなし。うれしいやら悲しいやら。どうしてこういうことができたじゃろうかと思い、氏子が助かり、神が助かることになり、思うて神仏悲しゅうなりたの。また元の書き口を書けい」
これが教祖と神様との出会いであり、人生が一変する信仰的回心ともいうべき体験でした。おかげの受け始めであり、ここからすべてが始まったのです。
神様の言葉どおり、全快した教祖は、安政三年、四年にかけて、月に三日(1・15・28日)の神参りを貫かれました。
この心の内は、それまでの神参りとは一変し、周囲から「信心分さ」と呼ばれるようになりました。
これまでは、ただ、難儀を逃れたり、御利益を願っての神参りで、神様の思いを知ることもない片便の願い捨て的なお参りでした。しかし、祟り障りの怖い神様が、自分を見守り、助けてくれた神様、しかも、応答して下さる神様だったのです。ですから、この神参りは、お礼はもちろんですが、無礼のない在り方、神様の心にかなう在り方を求めてのお参りだったでしょう。