『覚書』は生誕から明治九年、『覚帳』は安政四年から明治十六年までのことが記されている。安政四年から明治九年までの記述は重複するが、『覚書』にはないことが『覚帳』にあり、またその逆もあるといったように、両書は相互に補完している。
例えば、安政六年の立教神伝が、『覚帳』には二、三行の記述しかないのに対して、『覚書』は十数行にわたるというような例は、いくつもある。
明治四年頃にはほぼ同じ記述量になるが、『覚書』が明治五年頃から減少し、反して、『覚帳』は増えている。このように、両書があるので、初めて教祖の全体像を見ることができる。
関係図
図のように、『覚帳』が、『覚書』より先に、自らの意思で書き始められ、リアルタイムで書かれている。『覚書』は、後に、神様の指示で、生誕から振り返り、整理しながら書かれている。二書はそれぞれ、神様、教祖の意図があるといえる。また、『覚帳』には、何度も読み返し、訂正や追加、張り紙などが多数あり、年代順になっていない箇所もある。
覚書の執筆動機
『覚書』執筆の背景には、明治六年、布教差し止めによる神前撤去という、教祖の生涯で最大の危機を乗り越え、金光教の教えの拠り所となる天地書附が定まったこともある。また、この年は、取次ぎのスタイルなど、あらゆる面で金光教の内容が確立した年でもある。神様は、教祖に、それを踏まえて半生を振り返り、おかげを受けてきた信心と内容とを確認させる意図があったと思われる。
覚帳の執筆動機
『覚帳』を書き始めたのは、慶応三年と言われている。
理由は、「慶応六年」という記述があり、明治と元号が変わる以前に、記されたと思われる。また慶応三年頃から用いられた、「日天四、月天四、鬼門金乃神」という神名が、覚帳の表紙に書かれていることなどである。
さらに、この時期は、家族や教勢の上に繁栄を極めた。息子二人が武士として名字帯刀を許され、養母の葬儀も盛大なものであった。参拝者も増え、布教認可を得るために、領主に百両の献納できるほどで、神主の資格も得た。神様から、「神のひれいが見え出した。神が一礼申す」と言われるほどであった。教祖は、このようなありがたい神様や信心を記さずにはいられなかったと思われる。